浄光寺の歴史
概要
『法紹山 浄光寺』は、会津松平藩主・保科正之公の御生母である浄光院殿法紹日慧大姉(徳川2代将軍秀忠側室・お志津の方)の菩提寺として、
それまで会津城下の南町口にあったものを、寛文5年(1665年)に現在の地に移転建立された。
浄光寺第3世日然上人の時である。
藩政時代の記録によると、移転当時の寺領は100石、境内は東西1町16間、南北1町19間に及び、
約6,000坪の広大な敷地を有した大伽藍であり、
当時城下の寺院では、興徳寺・融通寺等と並んで最大の規模を誇っていたという。
しかしながら、戊辰戦争の戦火によって全てを灰に帰し、
当時を偲ぶ建物は現在は『鬼子母神堂』である当時の『釈迦堂』のみである。
この『鬼子母神堂』の堂本体は創建時の原型を保ち、
旧会津若松市内に残る木造建築物としては最古のものであり、市の重要文化財に指定されている。
浄光院殿法紹日慧大姉(お志津の方)と正之公
保科正之公の御生母・お志津の方は徳川2代将軍秀忠の乳母のもとに奉公していたが、やがて秀忠の寵愛を受けるようになり、男児を出産した。
これがのちの保科正之公である。秀忠の正室・お江与の方はたいそう嫉妬深い方であったので、お志津の方はひそかに実家の神尾家に身を寄せ、
やがて将軍の計らいもあってその男児は信州高遠藩・保科正光の養子となり、高遠藩3万石の藩主として『保科正之』と名乗った。
寛永12年(1635年)9月17日、お志津の方は高遠城内にて52歳の生涯を閉じた。
遺言によりその遺骸は火葬され、城下の長遠寺に葬られ、法号を『浄光院殿法紹日慧大姉』と号した。
寛永13年(1636年)正之公は山形県最上に国替えとなった。最上の晋光山本春寺というのは身延山久遠寺の末寺であり、
高遠の長遠寺とは同宗同門であったので、正之公は長遠寺の住職・日遵上人を本春寺に移らせ両寺を一寺とし、『法紹山 浄光寺』と命名した。
寛永20年(1643年)会津に国替えになった時、いわゆる「御供寺」として従い、城下の南町口に寺地を与えられた。
その後、慶安3年(1650年)浄光院が生前に日蓮宗を信仰していたので、正之公は遺骨を日蓮聖人の御廟所のある甲州身延山に移し墓を建立した。
正之公の養父・保科正光の弟である保科正貞は、元和6年(1620年)33歳の時、正光の遺言により狂人とされ絶縁されていたが、
その後各地で武功を立て、上総国飯野(現在の千葉県富津市)において2万石の大名となり、幕府の大番頭を勤めていた。
正之公は将軍家光の意向も考慮し、保科家伝来の諸品を正貞に譲った。
この時から正之公は保科家とはきり離れ、徳川一門としての大名という立場になった。
のちに3代藩主・正容の時、徳川一門の証である「松平」の姓と葵紋の使用を許された。
榮壽院殿慶室妙長日善大姉
3代藩主・松平正容(まさかた)の御生母。
正保2年1月12日江戸にて誕生。成長して保科家に仕え、正之公の寵愛を得、のちの3代会津藩主・松平正容を産む。
信仰に篤く、浄光寺現存の『釈迦堂(現・鬼子母神堂)』を建立。また、境内墓地内『奉唱妙経首題一萬部の碑』建立などの功績が残されている。
享保5年1月25日 76歳にて逝去。院内山に埋葬され、御位牌は浄光寺に安置された。
本妙院殿遠壽日量大姉
4代藩主・松平容貞の御生母。
寛永7年1月6日江戸にて誕生。
14歳にて栄光院殿の女中に上がったが、容姿端麗、小謡三味線に堪能だったので、3代藩主正容公をお慰めするよう会津につかわされた。
正容公との間に男児をもうけたが、やがて正容公の御寵愛が他に移り、家臣・笹原与五右衛門忠一の妻として嫁した。
忠一との間に女児をもうけたが、正容公との間にできた御子が4代藩主に就かれたので、御生母が家臣の妻では具合が悪いとのことで再びお城に召し返された。
享保17年7月13日 23歳にて逝去。院内山に埋葬され、御位牌は浄光寺に安置された。
海老名リン
嘉永2年生まれ。父は会津藩士・日向新介。
海老名季昌に嫁ぎ、戊辰戦争後には斗南~東京での生活を経て、明治26年県内で最も早い私立の幼稚園として、会津に『若松幼稚園』を設立。
続いて『若松女学校』(後の会津女子高校の前身)を創立し、会津の子女教育に尽力した。
リン女史は幼稚園の経営を一人娘の元女史に託した後、明治42年4月26日 61歳にて逝去。
浄光寺は海老名家の菩提寺であり、境内にあるリン女史の石像は、若松幼稚園卒園生により昭和7年に建立されたものである。
そして現在も、毎年春には若松幼稚園の園児たちがリン先生の遺徳を偲び、石像にお参りに訪れている。